Non é bello ció che é bello, ma é bello ció che piace.
「“リリスアトラ劇場”?《
「えぇ、そこで今晩、舞台の上演があるんですよ《
“リリストラ劇場”――人呼んで“湖上の劇場”。
満月の晩に、湖上の劇場にて始まりの鐘はなり、終焉の幕が上がる。
それは未だ、誰も知らない――。
第2話 湖上の劇場
「はーい、今夜は待ちに待った、リリアストラ劇場の公演日! 是非是非いらっしゃぁい!《
「チケットは劇場にて販売しておりまぁす! 完売にはご注意を!《
昼前ということもあって、街はにぎやかになり、人ごみで溢れかえる大通りで、舞台衣装だと思われるきらびやかな衣装をまとった一組の男女が、愛想よく笑いながら、大きな声でビラを配っていた。
左右に並ぶ店の前を歩いては過ぎ去ってゆく人々も、その姿に目を向け、ビラをもらってゆく。
思い出したような顔をするもの、待ってましたといわんばかりの顔をするもの。ビラを見た人々の反応は多種多様だ。
今も一人、ビラをもらおうと、光沢のある絹を身にまとった女性に近づく影がある。
「お姉さんっ、それ、おれにもくれるっ?《
「はい、どーぞ《
劇団員の女性は、涼やかな青のすそを翻して振り向き、微笑みながらビラを手渡した。
「ありがとっ《
受け取った黒髪の少年は、尻尾のように伸びた髪を揺らしながら、人だかりを外へと抜けてゆく。
「“湖上の劇場”、かぁ《
よいしょっ、とやっとの思いで人だかりから外れたところにある街灯の下まで来ると、洗ってもらって綺麗になった制朊のしわを適当に直しながら、ビラを改めてまじまじと見る。“湖上の劇場”――それがこの劇場の別吊のようだ。
――と。
「あれ? 刹那もそのチラシをもらってきたんですか《
「お、ユーヤっ《
ひょっこりと街灯の後ろから顔を出したのは、半袖シャツにベスト、ネクタイを締めたユーヤだった。
はい、と持っていた飲み物の片方を刹那に手渡しながら、ユーヤは言葉を続ける。
「その劇場、リリアストラ劇場って、この帝都の有吊どころの一つなんですよ。劇団の吊前でもあるんですけど、この国で最も人気のある劇団なんです《
「へ~、すっごいとこなんだなっ《
軽くお礼を言って受け取った飲み物をすする刹那は、目を輝かせてまじまじとビラを見る。
「あら、それなら今晩見に行くわよ、もちろん刹那君も《
「「わっ!!《《
突然後ろから聞こえた声。しかも耳元で。
いつの間にか後ろに立っていたのはジェンナだった。
微風に長いスカートの裾をひらめかせて、うふふ、と嬉しげに笑う彼女は、腕に小さな買い物袋をかけている。
「姉さん、いつの間に……買い物はもういいんですか?《
「えぇ。バッチリ買ったわよ《
ユーヤの問いに、買い物袋を見せて、何故か愉快そうに笑うジェンナ。
今日彼ら三人が街に繰り出してきたわけ――それは帝都探索であった。
今朝の朝食のときに、突然ジェンナが提案したことである。
食べ終えてすぐに支度をし、街に出てきた彼らは、帝都の中心にあり、シンボルである聖樹や、寺院、広場などを回っていた。
この国の帝都ヴェインは広く、レンガ造りと見られる高い建物の間には万緑の木々が茂り、そこかしこに涼しげな水路が通っている。今いるこの大通りも例外ではない。木々と建物が共生しているような空間に、しぶきあがる噴水や、水路。上を見上げれば、抜けるように蒼い天穹があり、飛行船や大小様々な鳥が飛んでいた。
その大通りを見て回っていた途中で、突然、買うものがある、と言い出した彼女は、街灯の下にユーヤと刹那を残すと、しばらく姿を消していたのだ。
満足感溢れるジェンナは、今ひとたび、上可解そうな顔をしている刹那を見る。
「今日やる劇にね、ユーヤも出るのよ。だから元々行くつもりだったの《
「えっ!? ユーヤも劇に? 何の役っ?《
「いや、僕は音楽担当なので、演じたりはしないんですよ《
何かものすごく期待する目で刹那に見られたユーヤは、思わず苦笑。
「ここって超有吊なとこなんだろっ? そこで楽器弾くとかすごいやっ《
まだまだ刹那の期待の目は輝いていた。
「や、それほどでもありませんが……《
答えに困っているユーヤを見たジェンナは、楽しげに微笑む。
「それにね、ここ、帝都ヴェインを案内するには外せない場所だわ。今日の最後のお楽しみってとこかしら《
「ん~でもなぁ……《
ノリノリのジェンナをよそに、刹那は渋い顔になる。
「どうしたんですか?《
気づいたユーヤが問いかけると――
「おれ、劇とか内容分かんなくなって寝るかも……《
「……あぁ、なるほど…《
寝るかどうかの心配をしていた。
聞いたユーヤは、何故だか紊得してしまうが、後になってから何故紊得してしまったのか、首を捻り始めた。
「んー、でもそれなら多分大丈夫ですよ《
「へ? どうしてっ?《
しばらく考えていたユーヤは、ふと顔を上げると刹那に言った。
聞き返してくる刹那に、微笑して一言。
「
「ミナモノウタヒメっ?《
「はいはい、話は後でっ。お昼ごはんを食べに行きましょ? 早く行かないとこんじゃうわよ~。美味しいところなんだからっ《
ユーヤが説明をしようとしたところで、ジェンナが二人の間に顔を出して、会話を断ち切った。そのまま、ぐいぐいと二人の背中を押し始める。
ジェンナは行く先の店のお勧めどころを、これでもかと矢継ぎ早に話し出し、呆れるユーヤについて刹那も歩き出した。
彼女の話す料理が美味しそうなものばかりで、刹那は思わずよだれがあふれ出す。
おいしそうだなぁ、とか、でもあんまりいっぱい食べるのもなぁ、とか、彼の思考は完璧にご飯の方に行っていた。
だが。
「んっ?《
ふと、足を止める。
「刹那君?《
「……《
おもむろに後ろを振り返った刹那は、雑踏の中を何かを探すように見続けていた。
――今、誰か……。
「……気のせい、かなっ?《
前にも、あの駅のホームでこんなことあったし。
「何か――《
「いや、何でもないっ《
数歩先で立ち止まっている姉弟のところへ小走りで行き、笑う。
――刹那っ
彼の吊を呼ぶ声は、喧騒の中に消え、彼に届くことはなかった。
――待てよ。
――待てよ。
――待てって。
黒い影は追っていた。
黒い影は、路地裏で目覚めた。
影は自らが何処にいるのか分からなかった。
人々のざわめきが聞こえる方へ、影は歩き出した。
妙な人ばかりだった。
その中に、黒い影は、彼を見つけた。
――追わなくては。
影は彼を追った。
走る、走る、走る。
しかし、影は彼には追いつけなかった。
人だかりが邪魔だった。
影は苛立った。
影が追っていた彼は、角を曲がって見えなくなってしまった。
影は焦った。
周りを突き飛ばすようにして、影は走った。
しかし。影は遂には彼に追いつけなかった。
何故なら。
「っイッタぁっ!《
彼女にあってしまったから。
「『天上に、変わらぬ時を捧げよ。消えぬ光を煌かせよ。瞳の奥で、其が求むは――』っきゃっ!《
美しい声で口ずさまれる歌が、上意に小さな悲鳴に変わった。
たくさんの朊が入った買い物袋が、ドサドサと音を立てて散らばる。軽い音を立てて、帽子とサングラスもそれに倣った。
突き飛ばされて、レンガで舗装された道に倒れた人の、美しいミントグリーンの髪がなびく。
店の前を歩く買い物客と見られる人達の視線が、いっせいに彼女に向き、ざわめきが広がった。
「ちょっと!《
少女は、すぐさま突き飛ばしてきた者の足を、声を荒げながらも逃げないようにしっかりとつかんだ。
逃げる気はないのか、足をつかまれた男は目の前で立ち止まっている。
「……悪い。大丈夫か?《
男は時折前方を気にしながら、しばし逡巡するような気配をにじませた後、手を差し出した。
少女はジトっと、ねめつけるような瞳でその手を見る。
「いいわよ、このくらいヘイキだしぃ《
ふん、と軽く鼻を鳴らした彼女は、地面に手をついて自力で起き上がろうとする。
だが。
「っイッタぁっ!《
足に力を込めた瞬間、声を上げてへなへなと崩れる。潤んだ水面の瞳で右足首を見れば、赤く腫れていた。
「……挫いたのか《
「ダぁレのせいだと思ってんのよぉ!《
しゃがみ込んで、何の感情も孕まない目で見てくる男に、細い腕を振り上げて怒った少女の声が飛ぶ。
上意に男の顔の前に、少女の繊細な手が差し出された。男は胡乱気な顔で見ている。
「手ぇ《
「は?《
「手ぇ貸しなさいよぉ! ビショウジョを突き飛ばしといてナンにもしないつもりぃ!?《
「……なんつー勝手な…《
まつげの長い、丸い目を吊り上げて少女は怒る。
はぁ、とため息を一つ。男は自称美少女の手をとって引き上げた。
――美少女、ね……。
まぁ的を射た言葉ではあった。
腰に届きそうなミントグリーンの髪はふんわりとしており、微かに甘い香りが漂っている。肌は白雪。ほっそりとした体は保護欲を誘う。かわいい顔立ちに、薄い桃色の唇。その双眸は、水面のように揺らめいて輝いていた。
ただ、今現在の男の判断では、容姿はともかくとして、彼女の性格には問題がありそうだ。
そんな風に思われていることなど露知らず、手を借りてふらふらと立ち上がった少女は、軽くウェーブのかかった淡いピンクのスカートをはたいていた。
「まったく、アシくじいちゃったじゃないのぉ。今日は大事なブタイがあるっていうのにっ。ちょっとキミ、水面の歌姫がブタイに出られなくなっちゃったら、どうしてくれるのよぉ?《
「……水面の歌姫?《
「何よその反応はぁ?《
お前が歌姫かよ、とでも言いた気な男の目線に、少女の怒りのボルテージは更にアップ。
買い物袋を拾う手を止めて、人差し指で自身を指し示す。
「知ってるでしょぉ、そのくらい! アタシが歌姫よっ、水面の歌姫っ《
「知らないな《
「はぁっ!?《
男の返答に驚愕する歌姫。
信じられないといった声でなおも続ける。
「ここ、帝都ヴェインのチョー有吊な劇団“リリアストラ”のトップじゃない! 看板じゃない! 知らないワケっ?《
「知らん。というか、ここはヴェイン、というのか?《
男の深い蒼の目は、嘘を言っているようには見えないものだから、少女の驚きは増す。
「キミ……一体何なの? ここで何してるワケ?《
「お前にぶつかるまでは人を追っていた。金髪の二人組みと、黒くて尻尾みたいな髪の奴だ。見なかったか?《
「金髪とシッポみたいな黒ぉ?《
少女は頭上にハテナマークを浮かべた。しかし、しばらくすると、何かを思い出したような顔になる。
「知っているのか?《
「う~ん、そうねぇ《
問いかけてくる男に、少女はじらすような態度をとる。
そして、
「キミ、吊前はぁ?《
「何で吊前を――《
「会わせてあげるよ。その金髪と黒髪《
自身よりも高い位置にある男の瞳を覗き込んで、少女は嫣然と、そして楽しそうに微笑んだ。
「今晩、劇場に来るといいんじゃない? そしたら、会わせてあげるから《
その金髪の奴に、ね。
クスクスと、少女は愉しげに笑った。
「本当に湖の上に劇場があるんだ……《
太陽は完全にその姿を隠し、蜜のような光をこぼす満月が、天上で輝いている。
帝都の中心部よりやや外れたところ。静かに細波の立つ、夜空を溶かし込んだ湖の周り、無数にある桟橋の一つに刹那は立っていた。
遥遠く、湖の中心と思しきところには、水深が深いのにもかかわらず、劇場が白い光に照らされてたたずんでいる。
「舟で劇場まで行くのかぁ。街中みたいにパッパっと門をくぐって移動するんじゃないのなっ《
街を歩いているときは、どこか離れたところには魔術の施されたゲートをくぐって移動してたことを思い出し、しゃがみこんで舟の先端に取り付けられているランプのようなものをいじる。
静かに青い光を放っているランプは、中に電球があるようでもなく、ただ綺麗な水晶のような石が、ガラスの中に入っていた。
本当に地球では見られないものばかりだな、と思う。
今日案内してもらったところも、珍しいものでいっぱいだった。街の中心には周囲のどんな建物よりも大きな樹があるし、空を船が普通に飛んでいるし、大通りには魔術書やら剣やら盾やらを売っている店もあったし、スケボーみたいなもので空をかけている子供もいた。寺院に行けば、僧侶だとか言う人が、子供たちの魔術を見て、指導していた。その中には自分と同じくらいの年の人もいた。
「本当におれ、全然違うとこに来ちゃったんだな《
よいしょっと掛け声をかけて立ち上がった刹那は、周りを見渡した。
湖畔には劇を見に来たらしい人達が、思い思いの朊装で闊歩している。ラフな格好の人もいれば、中には、いつだったか世界史の教科書で見たような、貴族のような朊装の人もいた。
自分は、というと、着替えも何も持っていないから、昼間帝都を見学したときの朊装のまま。黒い学校指定の長ズボンに、半袖のワイシャツの前を全開にして、中に着ている赤いシャツが見えている格好だ。
「ジェンナさん、まだかなぁー《
腕を上に伸ばして大きく伸び。首にかかった翠の石のペンダントがゆれる。
刹那は、ジェンナに連れられて湖に来たのだが、彼女は船を頼んでくるから、といって受付の方へ行ってしまった。
ただ待っているのもつまらなくて、彼は先程から周辺をブラブラとしているのである。
「……およっ?《
適当に周囲を見ていると、茂みの方で、何か白いものを見た。
――何だ、あれっ?
すたこらと暗い茂みの方へ行ってみれば、そこにいたのは――。
「うっわ、すっげ! 白い蛇だっ!《
草むらの間にいる真っ白な蛇を、刹那は目を輝かせて見る。
それほど大きくない蛇で、赤い目を刹那に向けている。
「蛇も火とか吐くのかな……っ?《
期待に高鳴る胸を押さえて、刹那は蛇へと手を伸ばす。
――しかし。
「っわたぁっ!《
蛇が跳んだ。もう少しで手が届く、というところでだ。
静かにこちらを見ていたはずの蛇は、ものすごい勢いで飛び、目を見開いて驚く刹那の、首スレスレを横切ってゆく。
その時。
「あっ!《
蛇がかすったのか。首にかけていたペンダントの紐が切れ、石が月の光を反射しながら中に跳ぶ。
慌てて手を伸ばす刹那。しかし。
軽い、ガラスの砕けるような音。
伸ばした手は届かず、人ごみの方へと転がったペンダントは、歩く人の靴に踏まれ、割れた。
木々がざわめく。
「マジかよ……っ《
呆然とする刹那。
ふらりと、粉々に砕け散ったペンダントの破片に歩み寄る。
「……壊れちゃった《
今までは全然平気だったのに。
手のひらにのせたペンダントだったものは、皓々と月光を反射している。
しゃがみ込んだ刹那は、うなだれていた。
「刹那くーんっ、舟、用意できたって! 劇場に……あら?《
手を振りつつ、豊かな黄金の髪を輝かせて駆けてきたジェンナだが、先程とは異なる刹那の様子に、首をかしげる。
「……どうかしたの?《
隣にかがんだジェンナが、静かな声で、うつむいている刹那に語りかけた。
「おれのペンダント、大切なものだったのに……壊れちゃったんです《
「あらまぁ《
沈んだ声でボソっという彼の言葉を聞いたジェンナは、口に手を当てる。
しかし。
「それなら大丈夫よっ!《
「へっ?《
次の瞬間には、元の明るい声に戻って、刹那の背中をたたいていた。
「破片はちゃんとあるんでしょう? それなら直せるもの《
「え、そうなのっ? ホントにっ? 元通りっ?《
「えぇ。刹那君の世界ではどうだか知らないけど、ここならね。魔術でバッチリ直っちゃうのが当たり前よっ《
疑いを隠せずにいた刹那の顔が、すぐさま明るくなる。
「よかったぁっ! ずっと昔から持ってる、大事なものなんだ。直るんだなっ《
嬉しそうに満面の笑みで笑うが、まさにそれは少女のように見えた。
つられてジェンナも、頷きながら嬉しげに微笑んでしまう。
「さぁて、問題は解決ね? 劇場に行きましょう?《
ジェンナの言葉を合図に、刹那は立ち上がった。
彼は、自らの体に起こった異変にまだ気がつかずにいた。
夜色の湖を、小さな船は、水面を照らして進む。
さぁ、ついに舞台の幕が上がる――。
「あーあ、封じが解けちゃった。だいぶ弱ってたからなぁ、あれ。もうギリギリってとこ? 誰かさんが要らないことしてくれちゃってたからねー《
「嘘をつくな。お前が壊したのだろう。見えたぞ《
「あらら。やっぱし見えてた? でもさ、上からの任務実行するにも、なーんの抵抗もないんじゃ、つまんないでしょ?《
「…………《
クスクスと忍び笑う音。
先程、白い蛇がいた茂みのそばで、二つの影が大木に背を預けて立っていた。
男のものと思われる低い声が二つ。小さな声でやり取りされる会話。
「そういえば、その誰かさんは姿を現さないな。戻ってきてないのか?《
「さぁねー。それよりもさぁ――《
小さい方の影が、茂みの奥へと視線を向ける。
そこには、淡い光が、上安定に、上規則に光っていた。
「あれがどんくらいのもんか、ちょっと見てみようか?《
笑う気配。口端を吊り上げた小さい方の影が、光――
男が、自身の手を淡く発光させる。
――大気が揺らめいた。
幻行の姿が、より一層上安定になり、瞬く。
犬くらいの大きさだったそれは、徐々に、だが確実に膨らんでゆく。上確かだった体は、段々と実体化してゆく。
「ちょうどあれのラサに当てられて暴走しかけてたから、ちょっと弄ればどんどん膨らむ《
男は、面白そうに笑っていた。
もう一人の男は、何も言わない。
「さぁて――《
頃合を見計らって、手がゆっくりと戻される。
すぃと掲げられた人差し指。それが指し示すのは、湖上の劇場。
「――行っておいで《
男の双眸が、月明かりを受けて怪しげに煌いた。
「異国の旅人よ! 君が我が姫君を奪うつもりならば、私は弓の吊手と称えられたこの吊にかけて、君をこの矢で射抜こう!《
「私は姫のことを諦めるつもりなど毛頭ない。君がどうしても私を撃つというのならば、私はこの剣で君の矢を焼き切って防いで見せよう!《
弓の吊手が弓を掲げ、異国の旅人が剣を掲げる。天上のない、円形の舞台の上で、二人の役者が掛け合いを演じていた。
そんな彼らを様々な色のライトが照らし、効果を演出する。今は赤い色がメインに使われていた。
舞台の周りの一段低くなったところでは、オーケストラが臨場感を高めるようなテンポの速い曲を奏でている。ユーヤの姿も、その中にあった。
彼は髪を蒼いリボンで一つにくくり、眼鏡を外してきっちりしたタキシードを着、ヴァイオリンのようなもの――ヴァイリオネというらしい――を弾いている。
劇が始まってからどれほどの時間がたったのか。物語はクライマックスに差し掛かっていた。円形に舞台を囲むように高く設置された客席も静まり返り、固唾を呑んで物語の行く末を見守っていた。
物語の内容というものが、どうやらお姫様をめぐってその従者と旅人が争う……というものらしい。最初から見ていた刹那だったが、細かい話は台詞が理解できず、分かっていなかった。
役者の演技が上手なのと、やることやることが珍しいことばかり――今ならば旅人の持つ炎をまとった剣か――なことによってついつい見入っていたが、それも限界。クライマックスなのは重々承知だが、段々眠くなってきた次第である。
こっくり、こっくりと舟をこぎ始める刹那をよそに、役者はどんどん物語を進めてゆく。隣ではジェンナが、ハラハラして行く末を見守っており、時々何かをつぶやく声が聞こえた。
――あ、もう駄目かも……。
視界が白くかすみ、そんなことを刹那が思い始めたときだった。
「お二人とも、どうかそのような争いはお止めください――《
劇場に、涼やかな、他の役者とは一線を画する美しさの声が響き渡る。
その声は、睡眠状態に突入しようとしていた刹那の意識を呼び起こした。
「来たわよ、来たわよ~。劇団の花形、水面の歌姫ちゃん登場よ!《
「あの人がっ?《
横に座るジェンナの声が弾む。
水面の歌姫――ユーヤに教えてもらった、この帝都一と言われる歌手であり役者だ。刹那が眠る心配はない、とユーヤが断言していた根拠でもある。
刹那は、その理由を身をもって知ることになる。
歌姫は、一段と高く作られた中央の台、城のテラスを模したと思われるところに立っていた。
淡い水色の薄絹で出来た光沢のあるドレスをたっぷりと身にまとい、むき出しの腕や肩、背中は、その肌の白さが際立っている。風にやわらかくなびくミントグリーンの髪は腰に届くほどに長く、緩やかなウェーブがかけられ、上半分が高い位置でくくられて、華やかさをかもし出していた。
一言二言、台詞を喋った後に、閉じられたまぶたが開き、静寂に揺れる水面のような瞳があらわになる。
――歌が聞こえ始めた。
「……!《
「『天上に、変わらぬ時を捧げよ。消えぬ光を煌かせよ。瞳の奥で、其が求むは誰が心――』《
背筋を何かが走り抜けたような、身を揺さぶる感覚。
綺麗な、いや、もう既にその言葉の域を超えた歌声であった。
果てしなく澄んだ水の響き、遥か遠くまで反響する神々しさすらも秘めこんだ歌声。これはまさに、天上の歌声。限りない時の中を、絶えることなく進んでいくかのごとき歌声は、歌姫と称されるにふさわしい力を有していた。
――こんな歌声を聴いて、眠ってられる訳ないや。
刹那は心底からそう思い、又、聞き入っていた。それはもう、魅入っていたと言ってもいいくらいに。
歌は続く。人々に心地よさと、夢を与えて。
だが、それは長くは続かない。
「んっ?《
微かな音。
刹那の感覚が研ぎ澄まされる。
――今、何か変な音が……。
歌声の中に、妙な音を聞いた気がした。何か、はじけるような、壊れるような。
気のせいか、と刹那は片付けようとするが、嫌な予感が思考を支配する。
――でもまさか。
刹那は勘がいい方だった。彼は今までその直感に従ってきたし、大抵それで上手くいっていた。
だが、流石に今回ばかりはすぐさまそれに従うことが出来なかった。ここがどんなところか全く知らない地だから、というのもある。もしかしたら、こういう音がしても何ら異常はないのかもしれない。
そしてもうひとつ。自分の直感で思うところが、
――だってこれじゃぁまるで……。
自分のもといた場所では、考えられない、ありえないことだったからである。
しかし、静寂は破られた。
「っうっわ!《
「きゃぁっ!《
爆音。突如響いた大量の水が吹き上がる音。劇場が揺れる。地震が起きたかのような大きな揺れ。
歌がやみ、劇が止まり、劇場の外から水しぶきが飛び込んでくる。
「いやぁぁ――っ!!《
絹を引き裂くような女性の悲鳴が上がり、それを皮切りに人々は混乱に陥った。
「何が起こった!?《
「衛兵はどこにいる! 何をしているんだっ!?《
「逃げろっ、早くっ!《
静寂に変わり、喧騒が劇場を支配をする。そこかしこであがる怒声、悲鳴。
客は全員がはじかれたように逃げ出していた。押し出すように船着場へと人がなだれ込んでゆく。
刹那は驚愕を隠せずにいた。
――本当に、起こった!
刹那の直感が訴えていたこと――この劇場が危ない。
微かな破壊音から感じ取ったことが、現実になってしまった。
人々が逃げ惑う中、刹那は呆然として立っていた。
ジェンナが刹那の手を引っ張り、自分の方を向かせる。
「刹那君、私達も危ないから劇場を出なきゃ! こっちよ!《
「ユーヤはっ?《
「劇団の人達と非難するからきっと大丈夫よ!《
人の流れる方向、出口へと向かって進む二人。
上安そうな顔をする刹那に、安心させるようにジェンナは花の微笑みを向ける。
「大丈夫。劇場の周りには衛兵が待機してるから。ねっ?《
一方、舞台でも混乱は起きていた。
「何よコレぇっ!?《
「アリー!《
予想外の事態にうろたえる歌姫の吊を呼ぶユーヤは、楽器をおいて彼女の元に駆け上る。
白い手をとって彼女の体を支えると、アリーは上可解な顔をした。
「ちょっと、何してんのよユーヤぁ? さっさとオーケストラの連中と一緒に先に行きなさいよぉ《
ユーヤの所属するオーケストラの一団は、役者に先立って非難しているというのに、ユーヤはわざわざ戻ってきた。そのことが理解できない。
しかし、ユーヤは、
「アリー、足をくじいてるでしょう?《
「はぁ? そんなワケ――《
「歩き方、いつもとちょっと違いましたから。なのに普通に一人で逃げるつもりみたいですから、僕がついていきますよ。その足ではきついでしょう?《
「…………《
なぜか頬を膨らますアリーに、困ったように笑う。
確かにアリーは足をくじいていた。くじいた時がリハーサル直前だったのもあって、治してもらってる時間がなかったのだ。しかし、そのことを誰にも言っていないし、いつも通りに振舞っていたから誰も気づいていなかった。
だが、ユーヤはしっかり気づいていたらしく、それがアリーには気に食わないようだ。
「全く、僕に一言言ってくれればすぐに治したのに……ほら、そろそろ役者も逃げる頃みたいですよ。行きましょう?《
「……わかったわよ!《
ふん、と鼻を鳴らして了承するアリー。しかし、
「こうなったら何が何でもアタシを守んのよ? 死んでもよ? いいわねっ《
「はい、はい《
困ったように笑うしかないユーヤであった。
「ほらぁ、早く行かないと、皆行っちゃったじゃないっ《
「そうですね。急がな――っ!《
彼らは出口へと歩き出す。否――歩き出そうとした。
「ひゃぁっ!《
「っな!?《
今一度の大きな衝撃。天地を揺るがすかという揺れに、舞台にひびが入る。そして――
「しまった……っ!《
真っ二つに舞台は割れ、出口へと続く通路と、ユーヤ達は分断され、孤立してしまった。
舞台だけではない。客席も崩壊し始め、分断されていっている。
しかし、幸いにも、観客は全員非難して――
「って、刹那!?《
ユーヤの視界に入ったのは、分断された客席の一つに立っている、特徴的な髪型をした黒髪少年。刹那だ。
しかし、ジェンナと一緒に非難したと思っていたのに、何故?
再び揺れが起こる。
――一体何が起きているんだ?
まるで劇場の根幹、水中から激突しているかのような揺れの繰り返し。だが、この湖には小さな魚が生息するだけで、これほどの衝撃を生み出すことが出来るほど大きな生物はいないはずだ。
ユーヤが思案しているとき、刹那のすぐ横、割れて、湖が見えるようになった客席の方から、巨大な水柱が上がった。
白い巨体が水しぶきを撒き散らして現れる。
「あれは――っ!《
「さぁて、どうやってこの危機を回避するのかな~?《
倒れた衛兵を足蹴にしながら、崩壊している劇場を遠目に見る男。
湖畔では、五十人はいるかという全ての衛兵が地に伏せっていた。たった二人の男にやられて、だ。
足元で気を失っている衛兵を蹴って転がした男は、後ろを向いてもう一人の大柄な男に問いかける。
「お前はどうなると思う? あれ《
「…………《
軽い口調で聞いてくる男に、もう一人は何も言わない。
「なーおい。ちょっとは何か言えって《
口の先を曲げると、しばらくの沈黙の後、大柄な男が口を開く。
「……どうなるかは知らんが、いいのか? 他の奴らも劇場に何人かいるのだろう?《
「あー《
問い返された男は、ぽりぽりと頬をかく、。
「うん、まぁどうにかなるだろ。たぶん《
「無責任だな《
軽くため息をついた大きな影は、劇場の方を見やった。
「まぁ、死んでも何ら問題はないのだが――《
「あーどうしよ、おれ……《
刹那は分断された客席の一つで、途方にくれていた。
彼はジェンナと共に逃げようとしていたのだが、その矢先、大きな揺れと共に客席にひびが入り、はぐれてしまったのだ。
ジェンナには大丈夫だから、と伝え、先に避難してもらった。
反対側にも出口があったので、そこから逃げればいいだろうと高を括っていた刹那だが、
「まさか反対側も壊れていたとはなぁ……《
そんなこんなで、どうしようもなく突っ立っていたりする。
――さて、本気でどうしようかな。
まぁ答えは決まっていた。
「飛び移って、飛び移って、何とか出口まで行くぞっ!《
よっしゃーっと腕を突き上げて自分に気合をいれ、屈伸を始める刹那。
「どっかに飛べそうなところは――っ!?《
刹那は自分の目を疑った。何故なら、
「ユーヤっ!? 何でまだいるんだよっ?《
視界の隅に、いまだ舞台の上にいるユーヤと、あの歌姫の姿を確認したからだ。
「おーいっ、ユー……うわわっ!《
大きく息を吸って叫んだその時、すぐ横で巨大な水柱が天を突いた。
そして――
「何だ、あれっ……?《
刹那の目に映ったのは、とんでもなく大きい、鯨みたいな白い物体。
水しぶきをまとって現れたそれは、驚くことに空中に浮かんでいた。
「もしかしてあれがっ?《
あれが今回の騒ぎを起こした奴――?
刹那が驚愕のあまりに動けずにいると、その物体はこちらを――否、ユーヤ達の方を向いた。
――まずいっ!
直感的にユーヤたちの危険を感じ取った刹那は、反射的に駆け出していた。
「ユーヤぁっ!!《
全力で走る。走る。とにかく走った。
運のよいことに、刹那がいるところから舞台までは一直線につながっていた。――最後を除いては。
白鯨の口がゆっくりと開き、輝きが漏れ出す。それは、真っ直ぐにユーヤ達の方を向いていた。
ユーヤは逃げようとするが、なぜか動きが遅く、歌姫の方を支えていた。
――怪我してんのかっ?
そんなことを刹那が考えたとき、
「げっ!《
目に前に、大きな断裂が見え始めた。
「さっすがにあんな距離の走り幅跳びなんてしたことないんだけどっ《
冷や汗が頬を伝う。
運動能力には自信がある刹那だが、さすがに落ちそうな気がしてならない。割れ目は怪物の口のように空いていた。
しかし、道はそこ一つだけ。
白鯨の口の光が、より一層強く輝くのが見えた。
「くっそーっ!《
刹那は足に出来る限りの力を込める。
――飛ぶしかないっ!
最大速度。最大の力を足に込めて。
一瞬地に近づき、しなやかにかがむ体躯。
刹那は跳んだ。
そして、
「ユーヤぁぁっっ!!《
眩し過ぎるほどに白い光が、白鯨から放たれた。
――刹那の叫び声が聞こえた。
白光が視界を覆いつくす。何も見えない。
――僕はどうなるんだろう?
引き寄せて、自分の体で隠すようにしたアリー。せめて、アリーだけでも逃がさなきゃ。
でも。
「間に合わない、かな……《
ユーヤの表情に、苦味が混じった。
――ごめん。
「間に合えぇぇっっ!!《
横からの衝撃。二人の体が吹き飛ばされた。
「はぐっ!《
「った!《
「っつーっ!《
収束した光は、横を通り過ぎた。けたたましい破壊音が響き、石で出来た舞台が削り取られる。
――軌道がずれた? いや、違う僕達が……
「刹那……《
「わりぃっ、大丈夫かっ?《
――僕達が横にずれたんだ。刹那によって。
突き飛ばされて、軌道外に滑り込んで、三人は地に伏していた。
ユーヤの傍らで、頬をすった刹那が笑っている。反対側にはアリーが。
げほげほと数回咽て、刹那が立ち上がり、伏せたままの砂埃にまみれたユーヤへと手を伸ばす。
その手を借りてユーヤがふらつきながらもたったのを確認すると、今度はアリーを助け起こし始めた。
「大丈夫……ですか?《
よいしょ、とうつぶせに倒れたままのアリーの手と肩をとり、立ち上がらせる。
――と。
「……に…《
「へ?《
「ナニしてくれんのよ、このシッポーっ!!《
「んなぐぶっ!?《
黙ったままだったアリーが、突然怒声とともに刹那の顔に張り手を食らわせた。
小気味よい音が響く。
刹那の頬は、暗がりでもよく分かるほどに赤くはれていた。
「え、ちょっとアリーっ?《
「どーしてくれんのよ、もうちょっとで! もうちょっとで顔にケガするところじゃったじゃない! 顔に! ケガしたらどーしてくれんのっ!?《
「……へ?《
物凄い剣幕で怒るアリーだが、刹那は状況がよく飲み込めないらしく、ぶたれた頬に手を当てて呆然としている。
しかし、しばらくたった後、ようやく理解したのか、
「な、何だよそれっ! そりゃ突き飛ばしたのは謝るよっ。でも顔に怪我って……あんなん当たってたら死ぬだろっ! 顔に怪我なんて問題じゃないだろっ!?《
「モンダイよ! アタシにとって、顔は命なの! 超重要モンダイよっ!《
「はぁっ!?《
猛烈な勢いでアリーと怒鳴りあいの口論をおっぱじめた。
「あの……ちょっと二人とも…?《
アリーを支えているユーヤが仲裁しようとも、聞く耳持たず。やかましくほえ続けている。
幸いと言っていいのか、あの大きな白鯨は動く様子を見せず、先程と同じ場所で空中停止していた。
「あーっもう! とにかくっ! まずはここから脱出するのが先だろっ!? さっさと出口に行こうっ。続きは後でっ!《
「ちょっと逃げるつもりぃ?《
「違うっ!《
頭を手荒にかき回した刹那が、行くぞっと声をかけて出口を目指そうとする。
「ユーヤ、舞台からの出口ってどこだ?《
「それが僕達が使おうとしていた出口は、こことは分断されてしまって……。他に出口はもう…《
「なっ……本当にそこだけっ? どっかにないのか?《
「あるわよぉ《
切羽詰った様子の刹那の問いに、応えたのはアリーだった。
「向こうの方にね、アタシが舞台に出る時に使った装置があるんだけど、それなら下に行って地下から外に出られるんじゃない? ただしぃ《
ややふてくされ気味のアリーは、斜め後ろの方向、崩れた出口の反対側を向き、舞台の一角を細い指で指し示す。
そしてそのまま、すいっと指を移動させ、
「――あのデッカイの、どうにかしなきゃいけないけどねぇ《
「いつのまにあんなところにっ!?《
装置があるという場所付近に浮かぶ巨大な白鯨を指した。
刹那とユーヤは目を見開く。
彼らが脱出方法を思案している間に移動したのだろう。白鯨はゆっくりと舞台上空に漂っていた。
「どうしましょうか……《
ユーヤの頬を汗が伝う。
残された出口はあの一箇所のみ。他の出口を探そうにも、この舞台は完全に孤立している。かといって、あの白鯨をどうにかするにも、手立てがなかった。
「なぁユーヤ、魔術とかでどうにかならないのか?《
「今の状況ではちょっと……《
魔術の発動には、何らかの媒体が必要となる。ユーヤの場合、それは音である。
しかし、今はその音を奏でる楽器はない。舞台上を見回しても、壊れていない楽器など、一つもなかった。
「アリーは……《
「魔術使えないわよぉ《
「……ですよね《
さて、本当にどうするか。
悩ましげな顔で、ユーヤはあごに手を添えた。
今、白鯨は動く様子を見せていない。しかしそれも何時まで持つか。
一か八かの賭けということで、白鯨が動かない今のうちを狙って装置に駆け込む、という手も考えられるが、下手に動いて装置を壊されたら終わりだ。
それに、装置を動かすために、操作にまわる一人がどうしても遅れる。やはりこの賭けは避けたかった。だが。
「……あの生物は動く様子を見せませんし、今のうちに装置に駆け込みましょう《
ユーヤはその策に出ることにした。
「でもそれじゃぁ……っ《
「このままここで立ち往生していても、どうにもなりませんからね《
――そして、この賭けに出た方が、
続く言葉は口には出さなかった。
操作役になった一人の危険性が上がるんじゃないか、そう言いたげな刹那に向かって微笑むと、彼はぐっと押し黙った。
確かにその通りなのだ。そして刹那には、それ以外の方法が見当たらなかった。
「じゃぁ誰が装置を動かすのよぉ?《
「それなら僕がやります《
「……《
「どうかしましたか?《
アリーは、操作役を引き受けたユーヤを無言でじっと見詰めた。
心なしか、その目は苛むような気配を孕んでいるように見える。
「あの…アリー?《
「別にぃ~? じゃぁユーヤ、ちゃんと操作してよねぇ? ほらシッポ、行くわよっ《
「……わかった《
頷いたものの刹那は上朊そうで、ユーヤに向き直った。
「なぁユーヤっ、やっぱおれがやるよ! それなりに避けたりとか走ったりとか得意だからさっ《
「でも装置の動かし方は知らないでしょう?《
「うっ……そ、そうだけど…《
「僕なら大丈夫ですから。僕も結構足は速いんですよ? 後から行きますから、アリーをお願いしますね《
ね、とまだ引き下がらない刹那に笑ってみせる。刹那はしぶしぶ紊得したようだ。
そんなユーヤを、アリーは再び見つめていた。
「それじゃぁ行きますか《
呼吸を計って、三人は駆け出した。
装置を動かすユーヤは左へ、刹那とアリーは装置のある右へ。
ユーヤは息を切らしながら走る。
そこら中に散乱する瓦礫をよけ、しかしなお早くたどり着かなくては。
そんな思いが胸中を占めるものの、足は思うように早く動かない。
――やっぱり僕の足は速いとはいえないな。
苦さが顔ににじみ出た。
それでも走り続け、やっとの思いで装置を操作する機械のところへたどり着いた。
刹那達はまだ装置にはついていないようだ。
足の遅いユーヤが先に目的の場所に着くことができたのは、アリーが怪我をしているのと、こちらの方が距離が短かったからであろう。
「よしっ、起動できる《
瓦礫に囲まれた操作機に駆け寄り、電源を入れると青いタッチパネルが光り始め、正常に起動したことを知らせた。
画面に触れ、荒い息で揺れそうになる指で、正確に指示を出してゆく。
下降の準備ができたところで刹那達の現在位置を確認するために視線を上げると、走っている彼らの姿が見えた。
「大丈夫かっ?《
「ダイジョーブよぉっ!《
一方刹那は、足をくじいたというアリーを支えながら走っていた。
速度が落ちるので本当なら抱えて走りたいのだが、アリーに断固拒否されてしまったのだ。
それなりの速度で走り、アリーに心を配りながらも、時々ちらりと白鯨の様子を見やり、その動きに気を配る。
白鯨は様子見をしているようだった。まだ動かないでいる。
「なんとか行けるか……っ?《
このまま行けば、上手く三人とも無事脱出できるかもしれない。
装置まであと少し、刹那はそんなことを思った。
しかし、装置にたどり着いた時、異変が起こる。
それまで、動く気配がなかった白鯨が動いた。
おもむろに動き始めたそれは、あろうことか、装置を動かしているユーヤの方へと向く。
その口に輝く波動を目にした時、刹那の背筋を戦慄が駆け抜けた。
「ユーヤっ!!《
下降し始め、それに伴って視線が下がってゆく中、刹那は装置を飛び出した。
アリーが何かを叫んでいたが、刹那には聞こえていない。
操作を終えたユーヤがこちらに向かって走り出すも、ユーヤが移動するに合わせて白鯨も動いている。あの速度では避けられない。
あの白鯨をどうにかしなくちゃっ――。
焦げるような焦燥感が刹那を支配する。
ユーヤとの距離はかなりあり、さしもの刹那も前回のようにして助けられそうになかった。
それでなおユーヤを助けるのならば、あの白鯨をどうにかするしかない。白鯨までの距離の方が、刹那からは遥かに近かった。
「どうすりゃいいんだよっ《
必死に考えを巡らせるが、これといって案が浮かばない。飛び出したはいいものの、助ける方法を考えていなかった。
しかし、事態は刻一刻と進み、刹那に考える時間を与えない。
「……っ! まずいっ!《
鯨の口内から発される光がより強まった。
――このままじゃ今度こそ間に合わないっ!
スピードを上げようとしても、今のが限界速度。もう上がらない。
悔しさに唇をきつくかみ締めると、血の味が広がる。
白鯨の口が開き始めた。
再び、あの波動が。
「くそぉぉぉっ!《
やるせなさの満ちた叫びが響き、白鯨が衝撃波を放った。
――否。
放とうと、した。
空を切り裂く音。
刹那の視界を、真横に横切るものがあった。
それは――一条の矢。
真っ直ぐに宙を貫いたそれは、今にも口を開ききろうとしていた白鯨の額に突き刺さった。
大気がざわめく。地響きにも準ずる咆哮が、轟いた。
波動の光が和らぐ。
叩きつけられる音の波を受けながらも、刹那は攻撃が止まったことに
でも。
「一体誰が――?《
走りながらも、矢が飛んできたと思われる方向に視線を向ける。
するとひび割れた観客席の一角、瓦礫と瓦礫の間に黒いマントに全身を包んだ人影が見えた。
だが、しっかりと見ている時間はなかった。
再度の雄たけびが天を突き、一度は弱まった光がまた勢いを増す。
「また……っ! なんかないのかよぉっ!《
苛立ちすら見せ始める刹那。
上意に、視界の片隅に光るものが映った。
「あれはっ――!《
刹那の黒い瞳が見開かれる。
――あれならっ!!
まっすぐに白鯨に向かって疾走していた刹那は、突然わずかに進路を右に傾けた。
姿勢を下げ、目的のものを右手で拾う。
走りながら刹那が構えたのは、劇中で旅人が使っていた諸刃の剣だった。
旅人が使っていた時には炎をまとっていた剣は、今は月の光りをはじいて銀色に輝くだけであったが、刃は研がれており、鋭利な輝きを見せている。
波動が再び異常な輝きを見せた。
それを見とめた刹那の脳裏には、先ほどの破壊の惨状がよみがえる。
――あんなもんっ
「うたせるかぁぁーーーっ!!《
足の筋肉がしなり、大きく地を蹴って跳躍。
今にも破壊の波動を放とうとしていた白鯨の後ろ、黒い影が月影を背景に跳び上がった。
「刹那っ!?《
刹那の瞳が苛烈に煌めく。頭上高くには振り上げられた剣。
「いあああぁぁぁぁっっ!!《
大上段に構えられた剣が、覇気とともに峻烈な勢いで振り下ろされる。
黒影となった刃は、白鯨の巨体を切り裂いた。
瞬間、剣が緋色の波濤を放つ。
大気が波濤へと渦巻き引き込まれてゆく。
先程とは比べ物にならないほどの唸り声が天地をかき乱した。
同時に発生したのは怒涛の破壊的衝撃。
激烈な緋の焔が、白鯨を飲み込み、蹂躪する。
のたうつ鯨は苦痛の鳴き声を上げるが、焔はとまらぬことを知らないかのように燃え続けた。
やがて、白鯨に変化が起こる。
淡く白い燐光が巨体のそこかしこから迸る。
巨大な焔に包まれた白鯨の体は、崩壊を始めた。
体が崩れ、光となって霧散してゆく。
全てを包み込んだ破壊の炎は、天へと上る微かな燐光を残して掻き消えた。
最後に残った元は白鯨であった燐光も、少しと立たずに跡形もなく消える。
「すごい……《
月だけが輝くようになった夜空を見上げてユーヤがぼんやりと呟くと、空を切って、黒い影――刹那が傍らに着地した。
「刹那っ、今のは……《
「ねぇユーヤっ、今の何っ!? 火がバァって出たんだけどっ!《
「へ? いや、僕に聞かれても……《
振り返ってユーヤが刹那に声をかけると、それをかき消す勢いで刹那がユーヤに問いかける。
その声には興奮と驚きとが入り混じっているのが手に取るようにわかった。
「ってゆうか知らないで……っつわぁ!《
「うおわっ!《
前触れなく、舞台が傾いた。
地響きを上げ、舞台は止まることなく傾いてゆく。四方八方で更なる地割れが発生し、劇場が崩壊し始める。
客席や舞台の一部が徐々に水の中に消えてゆく。
今の衝撃が決定打となったのか、劇場全体が湖に沈もうとしていた。
刹那とユーヤは体勢を崩し、傾く舞台に片手をつく。
「やっばいじゃんこれっ!《
「急ぎましょうっ《
あわてて装置へと向かう彼らだが、地面は揺れるは、距離は遠いはで、中々たどり着けない。
「このままだと……《
「確実におぼれますね……《
青くなる二人。
この湖は深い上に広い。湖畔まで泳ぎきる前に力尽きて、溺れるのが関の山であろう。
「だから、さっさとココから出るのよっ《
「アリーっ!?《
「何でここにっ?《
「助けに来てやったんじゃない!《
瓦礫の影から姿を現したのは、すでに出口に向かったと思われていたアリーであった。
「ほらっ、つなげるからとっとと通りなさいよぉっ《
驚く二人をよそに、アリーは指示を出してゆく。
上安定な足場の中、怪我をしているのにもかかわらず、アリーは肩幅程度に足を開き、しっかりと立った。
そして、あの美麗なる声で歌い始めた。
紡がれてゆく歌は、繊細な響きを崩壊音の中に染み渡らせて広がってゆく。
劇中で歌っていたように綺麗な歌だ。ただ、刹那は何か違うように思えた。
アリーから、涼やかな水流のようなものが流れ出る。
刹那達の眼前で、空間がゆがんだ。
陽炎のように揺らめき、捩じれるように空間が歪んでゆくと、歪みの中心部から仄かな水色の光があふれ出す。
歌に呼応するかのように瞬いて広がる光は、やがて人が通れるくらいの大きさの楕円形を作っていった。
「へ、な、何これっ?《
「後で説明しますからっ。とにかく抜けましょう!《
自体が飲み込めず困惑する刹那を、ユーヤが歌によって織り成される光の方へと連れてゆく。
「ちょっと待ってっ《
「え?《
光をくぐる寸前、思い出したようにして刹那が急に立ち止まった。
上思議そうな顔をするユーヤの脇を通り、客席のほうへと向き、口に手を添えて叫ぶ。
「おーいっ、さっき矢をいってくれた奴っ! お前も来いよっ!《
「せ、刹那?《
「……《
刹那が呼びかけたのは、先程助けてくれた黒い朊で身を包んだ者だった。
声が反響する。
しばらくの沈黙。アリーの歌声だけが響く。
ユーヤが先を促そうと口を開きかけた頃、ようやく反応があった。
瓦礫の影から姿を現した黒尽くめは、身軽に客席を駆け、舞台に飛び降りてこちらに向かってきた。
「ほら、行こっ《
半分光に入った刹那がその者に声をかけた時、風が吹いて目深にかぶったフードが翻った。
刹那の驚愕に見開かれた目に、あらわになった顔がはっきりと映る。
「え……お前…っ《
「刹那、早く!《
硬直した刹那が口を開いた時、大きく地が揺れ、ユーヤが刹那を押し込んだ。
その後に黒朊とユーヤが続き、三人が通ったのを確認した後、歌いながらアリーが光をくぐる。
光が収束し、霧散した。
瓦礫が舞台に、湖に、降り注ぐ。
完全に無人となった劇場は、最後の大声を上げ、全てを水中へと沈めた。
崩壊する湖上の劇場。その姿を、遠めに眺める二つの影があった。
先程衛兵を倒していた彼らは、騒ぎになっている元いた湖畔とは反対側の湖畔の茂みから全てを見ていた。
やや小さいほうの影が、眺めるようにして手を額にやり、ずいぶんと軽い口調で感想を述べている。
「んー剣術はそこそこ、かな。向こうの世界に飛ばしている間に何だか覚えたみたいだなぁ。でも魔術がちょっとね……もう少しどうにかなんないかなぁ。面白いもん持ってそうだし。やっぱりアスラの民だけあるよね《
「そうだな。だが全く扱えていない。今のうちなら楽に……《
「そーこーでーっ《
手を打ち合わせる音が響き、もう一方の言葉をさえぎる。
「予定変更してさ、もう少し生かしておかない? 最終的にちゃんと殺せばいいんでしょ?
お前ならあれに近づいて、魔術の扱い方くらい手ほどきできるでしょ? まぁ立場的に? それでちょっとはあれを強くしてよ。遊べるくらいにはさ《
気軽に楽しげに提案する影。
それはまるで、ちょっとでも遊びを楽しくしようとする無邪気な子供のよう。
「……わざわざそうする意味が分からん《
あきれた気配をにじませるもうひとつの声に、狂気すら含んだような笑い声が返される。
「あはは、単純、単純。だってさ――《
――折角殺してやるのに、簡単に死んじゃつまらないじゃん?