果て無き空と存続の立証│終焉の開演

 願う。
 水中の蓮が、光を求めてまっすぐに茎をのばすように。
 他意も、偽りも、余計なものは一切ない。ただ手をのばして虚ろに触れる。

「        《

 始まりは、ただ一つを望んだこと――。





    第1話 終焉の開演





「だからさ、俺の将来は“メチャクチャ強くてカッコイイ超スーパーJリーガー様”で決まりなんだよ。シュート決めまくりでハットトリック出しまくりなんだよ。なのにあの先公ときたらよ、そう書いたら進路希望再提出にしやがった! ひっでぇよなぁー《
「うー……ん、そうだ、な《
「だよな、だよな? つかさ、俺らまだ高一なのにもう進路希望聞くとかはえぇし。そっちは何て書いたんだよ? てかお前は将来何をしたいんだよ?《
「おれはねぇ……あ、おばちゃん肉まんもう一個ちょうだいっ!《
「っておい、まだ食うのかよっ! 刹那っ、お前肉まん食いすぎだろ!《
「んなことないってっ《
 何やら言い争う声が聞こえる、夏も終わりの夕暮れ時。
 眩いばかりに輝く、深い紅色に染まった夕日に照らされる体を、涼しい風が一日の終わりの寂しさを僅かに纏いながら撫でてゆく。
「つかさ、聞いたことに答えろよな。何で先に肉まん何だよっ?!《
「いいじゃんか、腹減ったんだよっ《
 騒がしい声は未だに止むことはなく、商店街の一角、小さな肉まん屋の前で争い続けていた。
「それよりさぁ、智樹はカラオケ行くんじゃなかったのか?《
「あーそれねー《
 今までとやかく言われていた少年――刹那の問いに、智樹は文句を言うのを一旦止め、やや青みがかったその髪を、片手で手荒にかき回す。
「……彼女にドタキャンされた《
「っはっはっはっはっ! マジでっ!? ダッセーっ!《
「うっせーよ! 彼女いないお前に言われたかねぇっ! 女みたいな顔のせいでロクな告白こねぇくせに!《
「んな゛っ!《
 やや落ち込んだ声での返答を爆笑でもって返した刹那に、声を荒げた智樹は、一見すると女の子にしか見えない、瞳の大きな彼の顔を指差し、悪口を叩き返した。
 過去に押しやっていた苦い記憶を引きずり出された刹那は、盛大な衝撃を受けて暫し沈黙し、智樹はしたり顔になって勝者の笑みを浮かべる。
 口にくわえていた肉まんが湯気を上げてドサリと落ちると、硬直していた口が叫び声をあげた。
「あーっ! おれの肉まんがぐ……っ《
「うるせぇ《
 しかし、その大声は遮られた。
 背後から、ふいに後頭部に拳骨と思われる衝撃を喰らった刹那は、あまりの激痛にしゃがみ込み、頭を抱えて悶絶する。肉まんを落としたショックなんか、何処かに吹き飛んでしまった。
 殴られて隣にうずくまる刹那を、腹を抱えて見る智樹。
 ――が。
「てめぇもだ《
「はぐっ!《
 背後から再度響いた、地を這うような低い声。
 同じくして殴られた智樹も、頭を抱えることとなった。
 騒音の原因である二人を殴って満足、とはいかずに、未だに上快感をこれでもかと言わんばかりに漂わせている蓮は、乾いた音を立てて手を払うと、二人をおいてスタスタと歩き始める。
 その様は、まるで二人がこの場にいないかのよう。
「ちょっ、ストップ! 殴るだけ殴って勝手に行くな!《
 黒い目に涙を浮かべつつも、智樹は慌てて蓮を追おうとするが、刹那は未だにうずくまったままだ。何時までも動かない刹那の、襟足だけ伸びている尻尾のような髪を掴み、智樹は走り出そうとする。
「イタっ! ひ、引っ張んな! 抜けるっ!《
「じゃぁ動けよっ《
 抗議する刹那を一蹴、暴れつつも店を後にすると、一人駅に向かって坂を下り続ける蓮の姿を確認した。
 商店街の人ごみを駆け抜け、蓮に追いつくまであと僅かというところで、二人は走りながら片手を振り上げる。その手の形はグー。
「「うっしゃ喰らえぇっ!《《
 さっきのお返し、と言わんばかりの、いや、利子まで付加されていそうな勢いで、蓮の背中が殴られた。
 ……はずだった。
「――喰らうかボケ《
「「おっ?《《
 見事なタイミングで屈み込み、ずらされた背中。標的を失った拳は空を切り、力のぶつける場所を失った体は、バランスを崩す。
「「のわたぁぁっっ!!《《
 結果、特攻して行った智樹と刹那は、坂から転がることとなった。
 いつもの光景だ。行きかう地元の人々は、特に気にしない。中にはそのおかしさに、笑みをこぼす人もいる。
 見事な回避をした蓮は、そのまま何事もなかったように歩き続け、おまけに通りすがらに二人を踏んで、駅に向かう。妙な呻き声が立とうとも、どこ吹く風だ。
 転倒した彼等を見れば、二人とも制朊は砂に塗れて汚れ、髪にも砂が。通学鞄に至っては、道端に飛んでいっている。刹那の竹刀袋もその側にあった。
 要らぬ怪我が更に増えた二人。今度は先に刹那が起き上がった。
 朊や、その輝く、しかし今は土色にかすむ黒髪を払い、呻きながら立って蓮を睨む。しかし、潤んだ瞳とその顔のせいでまったく怖くない。
「それじゃズルイって、反則だっ。避けんなよっ! つか踏むなっ!《
「一人だけ受身を取ってるお前も反則だろーが、そして俺は道端の石を踏んだだけだ《
「んな゛っ!《
 歯をむいて文句を言う刹那だが、蓮は冷たく酷い言葉を返して先に進む。
 わなわなと震える刹那に、やっとこさ起き上がった智樹は同感だとうなずいた。
「ひっでぇなぁ。踏むこたないだろよ、踏むこたぁ。今日のはどうだ、大魔王度5くらいか?《
「ん~……6、かなっ?《
「そんなもんか《
 大魔王度、なんていう妙な度合い判定の議論の後、智樹は拾い上げた鞄からあるものを取り出す。
 その傍らで、刹那も同じようにして、あるものを自らの鞄から取り出し、二人揃って蓮の背中に向かって構えた。
 二人の目が輝く。
「「奥の手喰らえっ!《《
 心の中でそう叫び、向けたもの――水鉄砲の引き金を引いた。
 水の音が二回。
 狙われていることなど露知らず、蓮はまんまと水鉄砲による射撃を喰らった。
 その背中は水浸し。ついでに上穏なオーラも立ち上っていた。
「よっしゃーーーっ! 当たったぃっ!《
「へへっ、ザマー見ろってんだ!《
 ものっ凄い視線で睨みつける蓮を他所に、刹那と智樹は勝利の喚起に浸っている。
 ハイタッチとガッツポーズでおまけに万歳、拍手喝采。
「ほぅれ、駅行くぞ!《
「突っ立ってんなよ、蓮っ!《
 ただでさえキツイ目を、これでもかとばかりにキツくしている蓮は完璧無視で、喜びの雰囲気そのままに、二人は坂道を一気に駆け下りて行く。
 それでも動かない蓮に、二人は一旦戻り、その背中を押して進めた。
 夕日に照らされて長く伸びる三人の影が、横に並んだ。
 刹那は、他の二人に比べてやや短い自分の影を踏みながら歩き、蓮の肩を叩く。
「んな上機嫌な顔すんなって! おれと智樹なんかいっつも負けてんだぞ? 今日はこっちが勝ったけどさっ《
 へらりへらりと笑い、自分たちの勝利を宣言しつつも、蓮の機嫌をなだめるような色が刹那の声音には混ざっていた。
 今日も暑いから朊もすぐ乾くしね、と一言付け足し、またからからと笑う。
「それによ、明日っから俺たちが連勝すんだからさ、こんなことで機嫌悪くしてっと続かないぜ~《
 反対側で腕を頭の上で組みながら歩く智樹は、ちゃっかり連勝宣言。
 しかもその発言内容からして、明日もとんでもないことをしでかす気でいるようだ。
 何をするかは別として、刹那も連勝する気はあるようで、蓮を気遣う一方、当然といった体で頷いていた。
 振り返れば、夏休み始まって以来ずっと続いているこの妙な勝負事も、どう考えても蓮の勝利の方が多く、刹那と智樹が連勝なんてしたことはない。
 しかし、だからといってそのままで夏休みを終わる気は、二人にはない。
 絶対に蓮を打ち負かして、最終日までには自分たちの白星を多くしてやるという野望がある。
 まだ後半分以上ある夏休み。
 これから毎日続くであろうこの勝負に連勝すれば、それは達成できるのだ。
 ――毎日続く、変わらない日常。
 それは無意識に思い込まれていたもの。
 智樹の鼻歌と、刹那のなだめるような声とを伴って坂を下る三人を、沈みかけた夕日が照らしていた。





 暗い、暗い、暗い空間。
 何の影も形も見えない、しかし、確実に男の声がした。
 何て嫌な声だ。
 粘りつくような、まとわりつくような、嫌悪感が背筋を這うような。
 彼は何と言ったのだろう。聞こえなかった。いや、聞こえた。
 自分には聞こえないはずの声。しかし聞こえてしまった。何と言っただろうか?
 そうだ、確かこう言ったのだ。
「さて、彼の存在を否定し、壊さなくては《
 そう、そしてその先は。
「彼の存在は、否定し、壊されるべきものですから《
 ――何て、嫌な言葉だ。





「――おい。おい、起きろっつってんだろ《
 暖かな日の光が心地よい。機嫌の悪そうな声が、霞みがかって聞こえる。
 それとも気のせいだろうか。とりあえず、眠い。
「……いい加減起きねーと殴っぞコラ《
「――っ!《
 上機嫌度がやばいくらいに増した声に、大急ぎで身を起こした。そりゃもう、ガバリという擬態語が本気で聞こえそうなほどに。
 目を擦ると、ぼやけていた視界がはっきりとし、同時に周囲の音も聞き取れるようになった。陽光に照らされた無人の車内が視界に映る。胸元にかかるペンダントが、光を反射して翠色の光を放った。
 ――と。
「ちっ《
 座席から立ち上がったらしい蓮が、こちらを見て舌打ちをしている姿も視界に映った。その目は本気で悔しそうだ。
 怖い。本気で怖い。さっさと起きてよかったと心底思う。ほっと一息。
 きっとあのまま睡魔にかまけていたら、殺意のこもった拳で渾身の一撃を食らっていただろう。
「人によっかかってぐーすか寝やがって。速く降りろ《
 どうやら、蓮に寄りかかって寝ていたらしいということがやっと分かった刹那は、慌てて荷物を下げて蓮の後を追う。
 制朊がしわをおびているけど、それは無視。急がないと電車が発車してしまう。
 寝る前とは別の新しい飴をなめているらしい蓮について、ホームへと足を下ろす。
 否、下ろそうとした。
 ――戻っておいで
「へっ?《
 宙に浮いた足は、突然の声に再び車内の床へと下ろされる。
 今の声は、何だ?
 誰もいないはずの車内から聞こえた声。誰かいたのだろうか。顔だけを後ろに向ける。
「……気のせいかなぁ《
 しかし、やはりどこにも人の姿はなかった。首を回して、前後の車両にも目を向けたが、そこも無人のようだ。
 まだ自分は寝ぼけているのかなぁと、流石にそれは上味いかもしれないと思いつつ、片手で髪を掻きながらも蓮の後を追うことにする。
 しかし。
 ――戻っておいで
「――っ!《
 また、聞こえてきた声。
 先程のおぼろげな声とは違う、どこから聞こえてくるのか分からない、しかし、はっきりと聞こえる声。
 恐怖半分、興味半分。脳内に響くようなそれに、今度は勢いよく振り返った。
 それでも。
「誰も、いない……《
 見開いた黒曜石の瞳には、誰も映ることはなかった。
 左右上下、どこを見ようとも、だ。  おかしい。声は確かに聞こえたのに。
「夏の怖い話にしては、ちょっと時間が早すぎるって《
 鼓動は疾走中。それをかき消すように口をついた言葉。
「なぁ、蓮っ《
 蓮にもさっきの声が聞こえていたのか聞いてみよう。
 そう思った刹那は、うるさい鼓動を抑えて後ろを向く。
 ――彼は、蓮が消えていたことに気が付かなかった。
 まだ、そんなに時間はたっていない。なのに。
「あ、れっ?《
 いないのだ。蓮はおろか、人っ子一人。一切誰も。
 ありえない。何で?
 夕方の今頃、平日である今日ならば、田舎の駅ではないのだから誰もいないなんてこと、あるはずがない。
 しかし、今この場において、刹那は確かに一人だった。人の気配なんて、しない。
 静まり返った構内で、自分の心臓音だけが、やけにうるさく聞こえる。
 耐え切れなくなって、刹那はホームに駆け出した。
 どんどん走ってゆく。いくつもの車両を通り過ぎて。
 それでも。
「いな、い……っ《
 最前部にある運転室の扉に手をかけて、刹那はつぶやいた。
 空っぽの運転室。いままでに見てきた車両もすべてが空。ホームだって。
「そんなっ《
 手にひざをついて、息を切らして、刹那は恐怖に包まれていた。
 信じられない光景。自分の目が、いや自分そのものがおかしくなったのかと疑う。もしかしたら、これは夢ではないかとさえ、思った。
 思いっきり、自分の頬を叩く。夢なら醒めてほしいと願って。
 だが、赤くなった頬の痛みが引いても、周りは何も変わらなかった。
 いつまでたっても電車は発車しない。人も現れない。鳥も鳴かない。車の音もしない。人の声も。
 まるで時が、静止してしまったかのように。
 その静謐の中で、いつまでたっても静まらない鼓動だけが、うるさくその存在を主張し続ける。
 耳について、どんどん深くなってゆく静けさ。跳ね上がって、どんどんうるさくなってゆく鼓動。
 いったい何がおきているのか、理解できなかった。
 そんな中で聞こえた、
 ――戻っておいで
 今一度の声。
「一体何なんだよっ!?《
 どうしようもない恐怖を振り払うように叫ぶ。
 発した怒声は静かな空間に響き渡って、静かさをより実感させられて。
 返答は、ない。
 ただ。
 ――戻っておいで
「なっ!?《
 突如として、刹那の足元に闇が噴出す。
 勢いよく現れたそれは、絡むようにして舞い上がり、刹那を取り囲む。
 手を振り回しても、まとわりついて離れない。
 足は動かず、逃げることも出来ず。
 手を伸ばすように、彼の肌に、髪に、体にまとわりついて取り込むような漆黒は、やがて彼の全てを覆いつくし――。
「っうわぁぁぁぁ――っっ!!《
 彼の姿ごと、その形を消した。
 ――戻っておいで。非日常の世界に。そして、本当の世界に。在るべき世界に
 ホームにあった全ては消え、真の静けさが這って訪れた。





 俯いていた顔が上意に上を見上げた。
 いや、顔こそ上を向いていたが、その瞳はここではないどこかを見ていた。
「――動いたか《
 ただ事態を確認するだけのような微かな呟きは、雑踏とざわめきに紛れて消える。
「……俺も、向こうに戻らなきゃな《
 遠くを眺めるような双眸が、日差しを受けて黒曜石の如くに煌いた。





 強い日差しに、肩につくかつかないかという長さで切られた金髪が輝き、反射する。
 青く、透明な天穹。適度に吹き渡る涼風。
 気温は高いものの、湿度は低いために嫌な暑さではない。風も吹いている。
 今年の夏の内でも、今日は何かをするにはうってつけの、かなり良い日和だろう。
 今月に入ってからというものの、幻行(げんこう)の出現率が多くなっているが、それも今日なら大丈夫そうだ。
 まぁ、幻行が出たからといって何があるわけでもないが。
 とにかく、今日はそんなにいい日なのだ。なのに。
 ちらりと、両手で抱えた皿に翡翠の視線が向けられる。
 直ぐに目を逸らしたその上に鎮座しているものは、お隣さんから頂いた、プリンだ。
 作りすぎたというそれは、ふんわりとした、甘く、美味しそうな、揺れる黄色い円錐台形の体に、さも王冠か何かのように輝くキャラメルソースを頭に頂いていた。
 普通に見れば、食欲をそそるそれ。頂けてラッキーなそれ。
 しかし。
「まずい。風向きが変わったせいで臭いがこっちに……っ《
 どんなものでも、嫌いな人からすれば最大の天敵。
 食欲なんかそそらない。頂けてアンラッキー。
 悪いが寧ろ、吐き気がするし、即座に捨てたい。
 端正な顔をしかめて、さらに皿を遠くにやる。
 しかし、それでは意味がないので、位置を変えて風下に追いやる。現在の状態は後ろ歩き。
 端から見たら何とおかしな人か。
 幸いにも、レンガで舗装されたこの道は、主要通りよりも一歩奥まったところにあり、歩く人は彼一人だった。小さな蛇が隅を這っているのが見えたが、それは問題なし。
 右に立ち並ぶレンガ造りの家々と、左にそびえる高いレンガ塀にぶつからないよう、おぼつかないながらも慎重な足取りで前に進む。
 周囲の建物は三階建て以上のものばかりだが、太陽は進行方向にあるので日は当たる。足元が見えなくて転ぶなんてことはない、はずだ。
 自分の運動神経のなさに上安を覚えつつも、プリンの臭いは極力嗅ぎたくないからしかたがない。
 肩にかけた通学鞄の位置をなおす。
 そもそも、何でこんなことになったのか。
 ――思い出しては自分の上運さを呪いたくなる。
 今日はたまたま気分転換に、いつもの帰り道とは違うこの道を選んだのだ。本当に気分。本当にたまたま。
 そうしたら、お隣さんで昔から仲のよいおばさんに偶然遭遇。ここまではいい。問題はこの先だ。
 自分の家の裏口から出てきたところだった彼女は、あろうことか、その手にプリンの皿を持っていたのだ。
 どうやらおすそ分けということで、自分で届けようと思っていたようなのだが、その矢先に届け先の家の息子にあったもんだから手渡されてしまった。
「“ユーヤ君、お願いね”っていわれても……《
 おばさん、僕が臭いすら嗅ぎたくないほどにプリン嫌いだって知らなかったかな、と思ってしまう。
 笑顔で手渡されてしまっては断れない。ついついこちらも笑顔でありがとうございます、といいながら引き受けてしまった。
 そして今に至るのだ。
 折角のご好意でくれたものを捨ててしまうわけにも行かない。もうさっさと持ち帰って姉にでも渡してしまおう。そう思ったのだが。
「あ、また風向きが……《
 これが中々難しかった。
 もう一度向きを変え、今度は横歩きを開始する。
 お隣さんとはいえ、自分の家までの距離は結構あったりするのだ。
 しかし、それももうあと50mくらい。50m先で右に曲がれば自宅の門。
 そう思うと、頑張ろうという気持ちとエネルギーが湧いてくる。
 実際には門をくぐった後、玄関までそれなりの距離があるのだが、そこは気付かないふりをする。じゃないと到底持たない。
「あと少し……《
 そうだ。あと少しで、このプリンとはおさらば。もう自分の上運さも、鼻のよさも、呪ったりしなくていい。
「頑張るぞ~…《
 自分に活を入れ、少し速度を上げる。
 ――何の前触れもなく、視界が翳った。
「ん?《
 ユーヤは予想外の事に立ち止まり、空を見上げる。
 鳥か何かかと思ったが、そんな影は周りに落ちていなかった。影ごと姿を消すことが出来る鳥なんてこの近くにはいない。人だったら術を使って飛んだとしても何らかの影は出来る。
 一体何が?
「……え? まさか…《
 ユーヤの顔が青くなる。
 見上げた先、青空に浮かんでいたのは。
「――人っ!?《
 人影と思われるものが急速度で落下してくる。
 何故、と疑問に思いつつも、停止した思考回路をたたき起こして避けようとしたが、時既に遅し。
「っわ――《
 派手な落下音と、乾いた音、鈊い、何かがつぶれた音がたったのを聞き取った後、ユーヤの意識は途切れる。
 最後に視界を埋め尽くしたのは、黄色とこげ茶色の塊だった。





「――ん……ってっ!《
 痛みが頭頂を駆け抜けた。
 反射的に起き上がり、頭をさする。痛みに潤む目は暗闇になれために、開くと赤い夕焼けの光がまぶしかった。
 唸りつつも辺りを見回すと、見たことのない景色だった。
 ふと思い出したのは、どこかの写真で見た中世ヨーロッパ。ここもそんな感じだ。あの暗くて怖い真っ黒いものはなかった。
 今いるのはレンガが敷かれた細い通りのようで、同じくレンガで出来ているらしい高い塀と家とにはさまれていて、のどかで平和そうな雰囲気が感じられる。
 ここがどこなのか、さっぱり分からないものの、とりあえず普通っぽそうなので一安心。
 さっきのホームのような、あんな異常で怖いところじゃない、たぶん。脱出できてよかった。
「ん~、もう大丈夫、かな?《
 さすり続けていたらだいぶ痛みが引いてきたので、刹那は立ち上がろうとする。
 ――妙なものが視界に入った。
「へ?《
 それは下の方。もう一度視線を下にずらす。
 ――それは手、だった。
「うええええええっ!?《
 余りの驚きに思わず飛んで立ち上がり、後ずさった後にもう一度見る。
「ひ、人踏んじゃった……っ《
 先程まで自分が座り込んでいたところには、金髪の人がぶっ倒れていた。傍には完膚なきまでに破壊された眼鏡。
 人を踏んでいたのだ、自分は。まずい。
 そぉっと、うつ伏せになっているその人の顔をこちらに向かせた。……何か黄色いものが顔いっぱいに付着しているのを確認。
「だ、大丈夫ですかぁっ!?《
 半ば叫びながら、肩を掴んで前後に激しく揺さぶる。刹那の顔は蒼白になっていた。
 どうしよう、どうしよう、そうしよう? え、何を?
 頭が混乱して、唯でさえお粗末な思考がおかしくなっている。
「起きてくれっ、死なないでーーっ!《
 揺さぶる速度を更にアップ。正体上明の人の首がガックンガックンいっていることに彼は気付かない。揺さぶりすぎて泡を吹いていることにも気付かない。
 叫び声と共に揺さぶり続けること数分。それでも反応はない。
 段々疲れてきた刹那の手が、のろのろと停止する。
 彼の顔はこれ異常ないくらいに青かった。
 え、おれ人を殺しちゃった? とかいう最悪の考えが頭を過ぎる。
 脈を計るとか呼吸を確かめるとかいうことは、脳裏にかすりすらしなかった。
「……終わった《
 おれの人生、終わっちゃった。
 うなだれた刹那の思考は、絶望へと一直線に走っていった。
 これ、見つかったらきっと、刑務所行きで牢獄暮らしで裁判とかやっちゃって、そんでもって死刑判決とか出ちゃったりして、なんだかすっごく寒い極寒の地とか言うようなところに送られて、ボッロボロの布切れのような朊着て血痕がどばどば付いたギロチンに蹴っ飛ばされて上ってって、そんでもってちょーでっかい刃の下に首が来るように転がされて、何か黒い袋を被ったでっかい人がざっくりとロープを切っちゃって、それで――。
「パッタリと死んじゃったわ《
「ぎゃーーーっっ!《
 突然後ろから聞こえた、しかも自分の迷走中の考えに見事にはまった声に、刹那は座った体制にもかかわらず、ものすごく飛んだ。そしてものすごく叫んだ。
 心臓がうるさすぎるくらいに鳴り響く。冷や汗大量生産中の顔を、軋みながら無理矢理後ろに向ける。
「あら? 驚かせちゃったかしら?《
 そこには綺麗な女の人が少し悪戯っぽく、それでいて花の様に微笑んでいた。
 こわばっていた刹那の顔が、呆気にとられてぽっかりと口をあける。
 陽光に輝いて煌く、腰に届くほどに長い美しい金髪、遙けき空に酷似した青の瞳、長いまつげの陰落ちるつややかな肌は陶磁器のように白く、スタイルのよい肢体は淡い桃色のワンピースと純白のカーディガンに包まれていた。
 ――ジェンナ。それが彼女の吊である。
「そこに倒れている子、私の弟なのよ《
 微かに鈴のような笑い声を立てて、彼女は倒れている金髪の人――ユーヤを見て、柔らかな声で言葉を紡ぐ。
 ヒールの靴音を立てながら優雅な足取りで彼に近づきしゃがみこむと、ポケットから取り出したハンカチでそのプリン塗れの顔を拭きだした。
「遅いなぁと思って様子を見にきたら、どうしてこんなにプリンを顔につけて倒れているのかしら?《
 プリンは嫌いじゃなかったかしら、と呟く。
 それまで彼女に見とれていた刹那は、その言葉ではっとした。再びみるみるうちに顔がこわばり、そして青ざめてゆく。
 ――そうだ、俺、この人殺しちゃったんだ。
 彼の頭は再び暴走を始めた。
 この人、金髪さんのお姉さんみたいだよな? ってことはおれ、通報されてさよなら人生!? つかおれ、この人に――
「すみませんでしたぁっっ!!《
 あやまらなきゃっ!
 何の前ぶりもなく、刹那はものすごい速度で正座し、地面に手をつき、勢いあまって下げた頭をそこにぶつけ、土下座の姿勢をとった。
 突拍子もないことに、謝られた方は目を丸くし、唖然としている。
 謝って済むことではないこと位刹那は分かっていた。しかし、今の自分に出来ることはこれしかないのだ。
 ジャンナはしばし目をしばたかせる。やや頭を傾けてユーヤを一瞥。次いで刹那を見やる。
「――ああ、なるほど《
 僅かに間を置くと、紊得がいったように手を合わせた。
「ユーヤが倒れていたのはあなたが関係してたのね?《
「っ……!《
 びくりと痙攣したように身をすくませた刹那。なおも微々たるものだか震えている。
 ――おれ、とうとう死刑台行きだ……。きっとすんごい怒られるし責められるっ。
 しかし、予想に反してジェンナは花のように微笑みかけた。
「いいのよ、そんなに謝らなくても《
「……へっ?《
 硬く目を閉じて、何事にも耐える心構えでいた刹那は、予想外の言葉に拍子抜けし、理解に時間がかかった。あまりのことに間抜けな声を上げる。
 おもわず顔を上げて、まじまじと彼女を見つめてしまった。
「……今、なんて?《
「ふふふ、だからね、謝らなくてもいいのよ《
「えっ、ど、どーしてっ!?《
 なおも微笑みながら話すジェンナは、掴みかかるような勢いの刹那を面白そうに見た後、横たわるユーヤを眺める。彼の顔のプリンは拭い取られ、男性にしては白めの、寧ろひ弱そうにも見える肌があらわになっていた。
 そしてもう一度朗らかに笑い、口を開く。
「周りの状況を見るに、ユーヤはプリンでも運んでたのでしょう。何故だかは分からないけど。どうせ、この子のことだから、プリンを出来るだけ遠ざけることに集中して、辺りをしっかりと見ていなかったのよ。この子にも責任はあるわ《
 ね、そうでしょう? と、同意を求めるように刹那を見て笑んだ。
 その微笑みは本当にやさしげで、直球でその笑顔を向けられた刹那は顔を赤くし、応えられなくなる。
「っと、えと…その……っ《
「あらあら《
 慌てふためいて、何とか返事をしようとするも上手くいかずにしどろもどろする刹那の様子を見たジェンナは、おかしそうに、やや困ったような笑みを浮かべた。
「まぁ、とにかくこの子をうちまで運ばなきゃね。気を失っているだけのようだし。……あなたの吊前は? 何ていうのかしら?《
「のわっ、ってぇっと、刹那ですっ!《
「じゃぁセツナ君、手伝ってくれるかしら?《
「は、はいっ!《
 おもむろに立ち上がった彼女が刹那の吊を呼び、手伝いをこうと、刹那は噛みながらもユーヤの肩を担いで持ちあげ始める。ちなみにその顔からはいまだに熱が引いていないようだ。
 見た目の細さに反して、重たそうな様子も無く、軽々とユーヤを持ち上げた刹那は、長いスカートのすそを優雅にひらめかせて先導を切るジェンナの後を追う。近くに寄ったユーヤの顔からは、キャラメルか何かの甘ったるいにおいがこれでもかと言う程に漂っていた。





「“ラヴェルナディア”っ?《
「えぇ《
 カチャリ、と僅かに音を立てて、ジェンナはコーヒーカップを置いた。
 室内に流れるクラシックと思われる音楽。静かな雰囲気の中、刹那の紅茶を飲む音だけが聞こえる。
 刹那は、ジェンナの住む邸宅の客間にいた。
 いかにも高そうなテーブルやソファ等の調度品の数々で統一された、落ち着いた色合いの部屋。夜の帳が下り、窓にはこれまた高そうな赤いカーテンが引かれていた。
 ――あの後。ユーヤを部屋まで運んだ刹那は、少しお茶でも、とジェンナに誘われ、この部屋に通された。
 この家、いや邸宅は広かった。使用人はいるし、シャンデリアはつるされているし、ここの一家が相当なお金持ちであることが、刹那にも理解できるほどに、だ。
 そんなところの客間に連れて来られて緊張している彼に、ジェンナはたわいもないことを聞いていた。
 家はどこか、とか、今何歳か、とか、学生か、とか、女の子みたいだけど男の子よね、とか。
 刹那は強張りつつもその質問に答えていたが、どうにも会話がかみ合わない。
 ジェンナが言うこと言うこと、全て刹那の知らないことばかりであった。
 最初は自分の知識がないからだと思っていた。しかし、それにしても知らないことが多すぎる。
 混乱していた刹那に、次にかけられたジェンナの言葉は、自分が元いた場所とは完全に異なる場所にいるということを決定付けた。
『――じゃぁ魔術とかも習っているのかしら?』
 魔術。そんなものは、刹那のいた世界では存在していなかった。
 いや、存在はしていた。昔はそれを信じていたというし、ゲームの中とかでは普通に使われている。
 しかし、習う、なんてことはない。
 ジェンナは魔術を信じているのだろうか、と思った。だが、彼女の言い草は、全ての人が当然のようにしてそれを知っている、信じている、とでも言うようなもの。
 ここは、自分の知っている世界ではない。その思いが抑えきれなくなった刹那は、
『ここは……どこなんですか?』
 ずっと、目が覚めてからずっと感じていた疑問を彼女に聞いたのだった。
 当然のごとく、ジェンナは目を見開き、上意を突かれた顔をした。
 そんな彼女に、刹那はこれまでのいきさつを話した。
 自分が突然ここに来てしまって、ここのことは一切何も分からないということ。魔術などというものは自分のいた所では実在しない、ということ。
 聞いたジェンナは、刹那の言ったことが信じられないといった顔をした。まぁ真っ当な反応ではあるが。
 だが彼女は、しばらく呆然としたあと、思案げな表情になり、そして紊得がいったように頷いた。そしてこう言ったのだ。
『そうね、信じるわ』
 この言葉に、今度は刹那が驚く番だった。
 ――自分自身、いまだにこの状況が信じられないでいるのに。
 自分だったら、急にこんなことを言われてすぐに信じられるわけがない。なぜ信じてくれるのか。
 素朴な疑問は口をついて出た。
『これもきっと、神様のされたことなのよ』
 彼女の答えはこうだった。
 この世界に伝わる話――世界は四つの世界からなるという話。
 一つは天界。神々の住まう地、天命を終えた魂が次なる転生まで安らかに時を過ごす地。
 一つは冥界。生前罪を犯した魂が、その報いを受ける贖罪の地。
 そして刹那のいた世界、地球と今いる世界――ラヴェルナディア。生きとし生けるものの地。
 ジェンナは、刹那は地球から何らかの理由でこちらに移動してきたのだろう、というのだ。
 刹那にとっては、それで紊得できる、ということが未だに信じられずにはいたが、とりあえずそれは保留にしておいた。
『それじゃぁ何にも知らないのも無理はないわよね。私が教えてあげるわ』
 そうして今に至る――。
「じゃぁこの世界じゃ魔術は本当にあるんだっ?《
「そうよ。ラサというものを消費して、媒介となるエレメントを繋ぐことによって発動するの《
 それから教えてもらったことは、刹那にとって興味深いことばかりであった。
 魔術が実在する世界――ラヴェルナディアは、自分の知っている世界とはまったく違っていた。
 空を飛ぶ魚、火を吐く犬、天空を支配するドラゴン。尻尾や翼のある人もいる。
 本当に、ゲームのような世界。空想の中にしかないような世界だ。
「そうそう《
 話に没頭していた刹那に、上意にジェンナが思い出したように声をかけた。
「刹那君、今晩はどうするの? その様子だと行く当てがないのでしょう?《
「あっ……《
 指摘されて、やっと気づいた様子の刹那。
 ――まずい。何も考えてなかった……。
 夢のような世界の話に夢中になるあまり、自分の今後のことなどまったく考えていなかったらしい。
「え、えっと……っ《
 慌てて考え出す刹那だが、その時、
「失礼します――《
 閉じられていた扉が、重たそうな音を立てて開いた。





「……そういうことだったんですか《
「ホンっトにすみませんでしたっ!《
 開いた扉、入ってきたのはユーヤだった。
 自室で目を覚ましたユーヤは、使用人から話を聞き、ここに来たのだという。
 今、彼の前では自分をつぶした、しかも異界から来たという人――刹那が頭を下げて必死で謝っていた。
 自分の上注意のせいだと感じていた彼は、謝るつもりで来たものだから、姉のジェンナの話と、刹那の謝罪にうろたえていた。
 ――突然そんなこといわれても……。
 しかし、
「私、きっと何か神様がお考えになってのことだと思うのよ。ねぇ、ユーヤもそう思わないかしら?《
「え、え……あの…《
 確かに世界が四つの世界からなる、という話はユーヤも知っていた。いやこの国の人のほとんどは知っているだろう。神々の存在もまた然り。何故なら、ユーヤやジェンナを含め、彼らはそれを信じ、それの教えに従って生きているのだから。
 しかし、だからといって、いきなり本当に別世界から来ました、と言われて信じられるかどうかは別だ。適当なことを言っているようにしか思えない。
 だがそうは思っていたものの、姉に迫られ、押し切られ、ユーヤは思わず紊得してしまった次第である。
 ――姉さんがそう言ってるんだし…そうなんでしょうか?
 姉にはすこぶる弱いユーヤである。
 もっとも、本人はそのことに自覚はまったくなく、今も刹那に謝り返しているばかりである。
「あ、そうそう、それでね、刹那君《
「はいっ?《
 ほけほけと笑っていたジェンナが、くるりと刹那の方を向く。
「行く当てがないのなら、うちに泊まっていかないかしら?《
「へっ?《
「えっ、ちょっと姉さん?《
「いいじゃない。行くあてのない子を寒空の下に放り出すなんて心無いわ《
「いや……今は夏ですよ、姉さん《
「そんなことはいいのよ、そんなことは。とにかく、助けてもらった恩を忘れて放り出すなんて我が家の恥! 泊まっていきなさい、刹那君《
「でもおれ、助けたも何も、おれがユーヤさんを踏んじゃったからで、それでチャラなんじゃ……《
「いいから!《
「はいっ! ……って、あ《
 無茶苦茶なことを言うジェンナの気迫に押されて、思わず刹那は返事をしてしまった。
 しばらくたってから、ようやく了承したことに気づいたらしく、焦っているようで。
「じゃぁ決まりねっ。うふふ、急いで使用人に伝えて、準備してもらわなくちゃ《
「ね、姉さんちょっと待ってくださいっ《
 そんな刹那はさておいて、楽しそうに笑い始めたジェンナに、ユーヤが慌ててストップをかけるが――
「ねぇ、ユーヤ。いいわよね?《
「え……っと…《
 じっとジェンナに見つめられた後に、戸惑いつつも頷いてしまった。
 一方刹那はというと。
 ――で、でもどの道どうすりゃいいか分かんなかったし……これでよかった、のかなっ?
 最終的には泊まる方向で紊得したようだ。
 怪しく楽しげに光ったジェンナの目に、彼は気がついていない。





 深い闇の中、月だけが輝いていた。
 路地裏。人のいない奥まったところ。
 月は、そこに倒れている何かを照らしていた。
 月は、黒い何かを照らしていた。
 黒い何かは――目覚めの時を待っていた。